私を無防備都市へ連れてって

2007年5月15日 (火)

私を無防備都市へ連れてって さいすうかい

沖縄

沖縄戦つーのは気が重いんだけど、やはり無防備語るなら避けて通れないと思うわけで。
そんなわけで思考実験してみましょうか。

さて、沖縄戦といえば民間人の集団自決やらダークな話題が最近クローズアップされるわけだが
首里と那覇を無防備都市宣言して、沖縄県約45万人を収容してはどうだろう?
この案の素晴らしいところは
1:無防備都市宣言により、民間人の集団自決の悲劇は避けられる。
2:首里と那覇に収容する以上疎開の必要もないわけで、対馬丸の悲劇も避けられる
点にある。
おお、素晴らしい。拍手ーっ!
第32軍も民間人の被害を考えることなく、思う存分米軍と戦える・・・・
ワケあるか!

第1の問題
地図を見てもらえばわかると思うが、首里・那覇とも沖縄南部の交通網の中心である。
ここを使えないということは、道路を使った機動は不可能ということだ。
航空優勢はアメリカにあるわけで、移動は夜間のみ。
帝国陸軍の機動が実質徒歩であったことを考えるとノルマンディーのドイツ軍以下の移動力しかはっきできまい。
それを考えると第24師団の投入ができたか非常に疑問である。
史実では4月13日~18日に早くも24師団の一部が62師団への増援という形で投入されている。
この辺りから史実とかなりかけ離れてくる。
下手をすると4月18日~4日26日の間に戦線を突破され、米軍の首里突入、米軍南下、北上中の24師団との遭遇戦がおこるのではなかろうか?
こうなると日本軍は無茶苦茶不利である。
あれほどの粘りをみせたのもひとえに堅牢な地下陣地があってこそだ。
32軍唯一の攻勢でもわかるが、地下陣地を出たらひとたまりもない。

第2の問題点
32軍約10万のうち、約2万人は現地召集である。
県民を救うために、結果兵員は20%減る事になる。
また、あの堅牢な地下陣地も沖縄県民の協力あってこそ出来たもの。首里・那覇に県民を収容するなら、収容施設を作るためにまた人手を割かなければならない。まぁ施設は県民に作ってもらうとしても、陣地構築は全部32軍自力でやらなければならん。
さぁ、史実通りの堅牢な地下陣地がどこまでできたか?

つまり、無防備都市宣言して県民の命を救った結果、兵員は減少し、満足に陣地は構築できず、まともに移動もできず、沖縄戦が5月中旬には終わったかもしれない。

帝国の崩壊

史実では統合参謀本部内では硫黄島・沖縄戦の結果を基にして本土上陸作戦はかなりの損害がでるだろうと予測され、それが対日戦略をめぐる侵攻論VS封鎖論の対立につながっていく。
当時、原爆なんてものは軍上層部もろくに知らされない極秘中の極秘で、しかも本当に使えるものなのか不明のイレギュラー兵器である。
つまり、沖縄戦が比較的軽微な損害で、史実より短期に終わった場合、8月~10月前後には本土侵攻作戦オペレーション・ダウンフォールの発動、より具体的には南九州上陸作戦オペレーション・オリンピックが開始される可能性がある。
さらに、ソ連の対日作戦というファクターがある。
日本軍が早く降伏するなら、日本の降伏も早まる可能性があるわけで、ソ連が対日侵攻する前に日本は降伏するかもしれない。それはソ連がヤルタで取り決めた権益を得られなくなることを意味する。
戦後に『取り決めだから』といって主張するのは可能だが、実行支配していないし、なにより4月12日以降スターリンの交渉相手はトルーマンである。
つまり、スターリンは既成事実を作るため対日作戦スケジュールを繰り上げる可能性がでてくる。
アメリカはアメリカで、反共主義のトルーマンが素直にソ連の対日侵攻を認めるとは思えない。ポツダムあたりから対日作戦では米ソは対立し始める。
ドミノ倒しのごとく事態は進む。
ソ連の対日作戦前倒し→オペレーション・ダウンフォールのさらなる前倒し→その結果は・・・

当時、本土では作戦方針を「内陸持久」から「水際決戦」に転換し、まともに陣地構築ができていなかった。しかも装備は(一部の部隊とはいえ)「中国で鹵獲した青龍刀」だの「竹やり」だの「木製簡易小銃」だの最貧ここに極まれり状態。

連合国の対日スケジュールは繰り上がり、本土は対抗できる力はなし。
つまり、想定される結果は日本分割占領にほかならない。

確かに沖縄戦は悲劇だ。
大戦中の世界中の民間人の被害も悲しむべき事だ。
だが、だからといってその悲劇を避けた結果
より悪い未来を選択する可能性もあるのだ。
稚内で無防備都市宣言をしている運動家が、サハリンに強制移住させられてロシア国民になっている未来や、宮崎で無防備都市運動している運動家が、本土決戦により存在そのものが無くなる未来もありえる。
無防備運動の皆様、それでも運動続けますか?

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2006年9月25日 (月)

私を無防備都市へ連れてって 第4回

私を無防備都市へ連れてって 第4回

皆様お久しぶりです。管理人ulyssesです。
いったん沈静化したと思ったら、最近また無防備運動の『馬鹿』が増えているようですので4回目をお送りいたします。
さて、今回は無防備運動の皆様の心のよりどころ、パリ編をお送りいたします。

時は1939年9月。ヨーロッパで再び戦争が勃発しましたが、ドイツ・フランス・イギリスもガチ勝負になると思っていなかったもんだから、実に8ヶ月も西部戦線は平穏でありました。世に言う『いんちき戦争』です。
しかしながら1940年5月、アルデンヌの森を進撃したドイツ軍は戦線を突破。そのまま北上してフランス大陸軍・イギリス大陸派遣軍を包囲、撃破。
6月にはドイツ軍は南下を開始して6月14日にはパリに無血入城を果たします。
では、パリで市街戦が発生していたらどうなっていたでしょうか?

1、そもそも抵抗できたのか?
これがはっきり言って怪しい。そもそも首相に指揮権が統一されているわけでもなく、かといって国防軍参謀総長であったガムランに統一指揮権がああるわけでもなく、それどころかガムランはパリ近郊のバンセンヌ要塞に司令部を設置、実務を担当する北東方面総司令官のジョルジュとは電話線一本通じていなかった。
しかも。政敵レイノー蔵相の愛人 ド・ポルト伯爵夫人の画策で、1939年3月20日には内閣不信任が成立し首相がダラディエからレイノーに代わっていたりする。
政治家はグダグダ、指揮系統もグダグダ。チャーチルも最初は「そのうち補給が切れてあいつら止まるだろうし」って慰めてたのに、ダンケルクでボコられてからは「スピットファイアは引き上げるから」とつれなくなるし。
これで勝てるという方がおかしい。
が、一応フランス人もちょっとは頑張っているのだ。
ドイツ軍がパリに近づいた時も、閣議で「セーヌ川に駆逐艦を遡上させられないか?」等考えていたり、火事場泥棒狙いで参戦したイタリア軍は撃退してもいる。
やればできるん子なんだ、フランスは。
とはいえ、やっぱり無理だよなぁ。そもそも野戦軍が消滅しているし。
逆に言えば野戦軍さえ健在ならなんとかなるのであって、そのための無防備都市宣言なんだが。
ま、ともかく。
パリで抵抗したとして、せいぜい歩兵師団1~2個、後は民兵が1万がいいところではないか?(人ばっかり集めても武器がない)これで100万人都市を防衛って、もって1週間だろうねぇ。スターリングラードもかくやの壮烈な市街戦を展開しても2週間もてば最上等でしょう。
つまり、いかにしてもパリは破壊され一般市民にも被害でて、しかもフランス降伏は免れない。
おお、無防備都市宣言していてよかったのか?

2、ではその影響は?
んー、フランス降伏が長引いたとしてもBOBがずれ込むだけだしなー・・・・って違う。
ここで仮定したいのは、対独戦への抵抗の象徴、レイノー内閣の断固たる意志として決断されたパリ市街戦の場合を考えて見たいと思う。
そう、沖縄や硫黄島のように、負けるのはわかっているが、抵抗するということだ。
確かにパリは陥落する。だが、パリ市街戦を決断できるのであれば、おとなしく降伏するだろうか?
そもそもフランスにはもう兵力がないのか?
それがあるんだ>植民地(植民地には当然だが植民地軍団と呼ばれる軍隊が配置されていた)
植民地があるが故に、海軍が健在であるが故に、イギリスもアメリカもフランス植民地とフランス海軍を引き入れたがったし、連合国の傘下に入らないなら攻撃すらしたのだ。
自由フランスを立ち上げたド・ゴールも、最初は誰からも相手にされなかった。フランス植民地を纏め上げたから相手にされたのだ。
そして、そのフランス海外植民地はフランス降伏後、政治的に不安定だった。理屈で言えば後継政府であるヴィシー政府に従属するのがスジだが、誰もが傀儡政権だと見ていたし、かといって海のものとも山のもの知れぬド・ゴールの自由フランスにも従わなかった(なにせ指名を受けたわけでもないフランスの一軍人が勝手に立ち上げた組織なのだ、自由フランスは)。そうであるが故に各植民地総督府は半独立の状態となってしまった。
そこに目をつけたのが誰あろう我が大日本帝国である。切り取り放題になったフランス領インドシナへ武力進駐を開始し、それはアメリカとの対立を深めていく。
だが、断行たる象徴とてのパリ市街戦を選んでいたら?
レイノー内閣はアルジェリアあたりに逃げたかもしれないが、パリ市街戦は抵抗の象徴として全フランスを纏め上げただろう。フランス領インドシナへ武力進駐もできたか怪しい。そして、ヨーロッパの戦争は明らかに長期戦の様相を呈しただろう。それは1940年9月の日独伊三国同盟成立を妨害するファクターではないか?(最初は日独伊防共協定。次にドイツから日独伊三国同盟を打診されたが、日本はしぶり、痺れを切らしたドイツは独伊軍事同盟を結ぶ。そもそも独ソ不可侵条約で日本では『防共協定ってなによ?』という世論もあった)
三国同盟は枢軸加担であり、それはアメリカとの対立を招く。だから迷っていたのだがフランスがあっけなく降伏したので勝ち馬に見えるドイツに乗ったのだ。
少しでもパリで抵抗していたら?
確かにパリ市民の被害は痛ましい出来事だろう。だが、それが戦争のさらなる拡大を防ぐとしたら?
是非とも無防備運動の皆様にお伺いしたい。

3、まとめ
簡単に『無防備、無防備』っていうが、都市、それも首都となればその影響は軍事・交通から政治に、それも将来にまで及ぶのであって簡単に無防備であればよし、とは言えないことをお解かりいただけただろうか。
無防備運動の馬鹿共はちったあ歴史を知れといいたい。

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2006年7月24日 (月)

私を無防備都市へ連れてって 第3回

皆様お久しぶりです。管理人ulyssesです。
さて今回はモスクワ編をお届けします。
ボードゲーマーなら一度はやってみたいことが2つあると申します。
一つはUSSエンタープライズの撃沈と、もう一つがモスクワ占領。
その片割れをかなえさせてくれる素晴らしきかな無防備運動、その結果はいかに。
では、はじまりまじまり~




1:通常の無防備都市宣言だったら?

さぁて、まず何時無防備を宣言する時期についてだが、これがなかなか難しい。ウマーニ包囲戦が終わった頃でもいいが、その後は秋の泥濘で進撃がストップしている。敵が止まっているのに無防備宣言するものだろうか?かといってモスクワ直前まで行った12月だと今度は近づきすぎているような感じもする。まぁ間をとって、秋の泥濘が終わったころに無防備としようか。でも、実は時期は大した問題じゃない。なぜなら次のイベントが控えているからだ。そう、
1941年―1942年の冬季ソ連軍反攻である。
webでも書籍でもなんでもいいから、東部戦線の戦況図を引っ張り出してみるといい。いかにモスクワを占領したとして、時期的にその遥か東方のゴーリキーまでいけたとはとても思えん。おそらくモスクワを中心とした大きな突出部を形成したはずだ。
ソ連軍のドクトリンから考えれば、反撃する作戦はモスクワ包囲と、史実通りの中央軍集団の包囲、その2重包囲作戦になっただろう。モスクワ奪還は必ず行ったはずだ。モスクワという都市にはそれだけの価値がある。
さて、対するドイツ側。あのヒトラーが、いったん占領したモスクワをあきらめるだろうか?つまり、こちらも史実通りの死守命令発動だろう。
そうなると予想される結果はというと・・・・
包囲されたあげく、モスクワ市内で死山血河の大戦争。ここは1年早いスターリングラードかね。
あれぇ?被害を避けるための無防備だったのにねw
無防備都市推進派はモスクワ市街戦をお望みかね。
もっとも、この時期のソ連側の装備・士気・錬度を考えるとモスクワはなんとか維持できそうな気がする。ドイツ側も大損害だが。
仮にモスクワ奪回しても、ソ連側はモスクワ奪還に史実よりもリソースを回さなければいかんわけで、北方・南方でのソ連の圧力が減ったのではないだろうか?
そうなると、一番影響をうけるのは1942年のドイツ軍夏季攻勢だろう。史実よりもドイツ軍は進撃できる可能性がでてくる。
つまりだ。最終的に1000万を動員した結果から考えればドイツの敗北は免れまい。しかしそれが1945年の4月よりは延びるだろう。
んー、そうなるとソ連の対日戦参戦も伸びるわけで、1945年8月15日に間に合わなければ千島・南樺太も日本領なわけで、トルーマンが講和条約でそれらをソ連に景気良く呉れてやるとも思えず・・・・
今頃は「夏の南樺太を満喫する秘境ツアー」なんて旅行会社の広告を目に出来たのかもしれんね。
あー、モスクワ無防備いいかもしんない。
その代償がドイツ人。モスクワ市民の史実よりも大きい犠牲という点を除けばさ。




2:無防備都市を条例化していたら?

はいそこ、あのスターリンがそんな事認めない、なんて突っ込まない!
いやね、わかってるんですよ。ありえねぇって。
でもまぁ、あの白髭のオジサンが「共産的平和主義的優しさ」を発揮して無防備都市を条例化したとしましょう。そうなるとどうなるか。
そうなるとすごいぞー。
まずレニングラードは陥落する。これは間違いない。
意外でしょ。
地図をよっく見てみるとわかるんだが、ロシア南部と北部では鉄道網の密度がまるで違う。しかも、北部だと南北を結ぶのは線は少なく、ほとんどがモスクワを経由する。つまり、レニングラードに増援を送れんのよ。
スモレンスク戦やウマーニ戦だって怪しいもんだ。あの兵力はモスクワ経由で送られてきているのだ。
ここまで来ると、もうモスクワの命運なんてどうでもよろしい。
わかっているのは1941年の7月にはレニングラード陥落間近、モスクワ陥落は決定事項という事実である。
これはいかなる影響を及ぼすのか?
それが意外なところに出るんだな、影響。
1941年7月7日、ある極東の新興国家かつ傀儡国家である事件がおこった。
関東軍特別演習、略して関特演である。
独ソ戦の勃発に伴いソ連を挟撃しようとしたものとか、ヒトラーへのリップサービスとか、むしゃくしゃしてやった今は反省してるとか、兎に角何を目的に行ったのか今ひとつ不明瞭で謎の多い事件ではある。史実では。
ここである史実を思い出してほしい。
ムソリーニはフランスが負ける頃に、このままじゃ何も得られないとばかりに火事場泥棒的に参戦した。
それと同じことが関東軍にも起こらないとは誰が言えるだろう。
なにしろ勝手に満州事変を起こし、対中国戦を勝手に拡大し、全員が全員政治家気取りの参謀で占めていた、あの関東軍である。
ソ連必敗(に見える)の状態で、対ソ戦に参加しないということがありえるだろうか?
つまり、1941年の7月か8月には我が日本は対ソ戦になだれ込み日米戦をする余力は、当然無い。
当時のルーズベルトはイギリス救援、できれば対独戦に入りたがっていた。対日に関しては交渉でなんとかなるだろう、国力の劣る日本が宣戦布告するとはあまり考えていなかったようだ(ハルノートは最後通牒ではない。あれは「これを叩き台にして交渉を始めましょう(Strictly confidential, tentative and without commitment November 26, 1941「機密,試案であって義務を伴わない日米交渉11月26日米側提案」)」というもので、それを日本が勝手に最後通牒と解釈した)。
とはいえ、レンドリースだけでイギリス救援ができるわけもなく、かといってドイツがアメリカに宣戦布告するわけもなく、対日交渉がまとまるわけもなく、結局考えられる可能性で高そうなのは1942年前半にアメリカによる対枢軸への宣戦布告ということになる。
皆の衆、聞いて驚け。
スターリンのおじさんがモスクワ無防備都市条例を作ったおかげで、太平洋戦争はアメリカの宣戦布告により、1942年に始まる事になった。日本めがけて進撃するアメリカ太平洋艦隊。そう、日本海軍が何度も想定していた戦争である。
皆の衆、聞いて驚け。
つまり、起こりえるのは


マーシャル沖での艦隊決戦!




なんつーかね、認めていいかもしんない。無防備都市運動。
ただし、キャッチコピーは
「90式戦車とM1A2のガチンコバトルが見れる可能性が高いです!」
にしていただければ、という条件つきでな。

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2006年7月11日 (火)

私を無防備都市へ連れてって 第2回

今回はちょいと趣向を変えて、ちょいと実験。
用意するもの。
旧エポックの『失われた勝利』
つーか、シミュレーション・ゲームするの何年ぶりだろう。
ルールを一通り読んで、なんどかテストプレイして、いざ実験。
なお、以下の特別ルールを使用します。
1:レニングラードは1941年6月の開戦と同時に、無防備都市となる
2:ただし、1941年6月のソ連プレイヤーは、レニングラードをRPとして計算してよい。
3:6月以降、ドイツ軍に占領されるまで、ソ連軍はレニングラード市内にユニットを侵入させる事は出来ない
4:同様に、レニングラードを経由する全ての鉄道はレニングラードで断線する
5:レニングラード隣までは鉄道で移動するのはかまわない
6:レニングラードの南1へクスにある鉄道に迂回線を建設するものとし、8月から利用可能になる
7:天候は史実通りとし、9月晴れ、10月軽い泥濘、11月凍結、12月雪、とする
8:北方軍集団の編成もレニングラード占領までは史実通りとし、2個装甲軍団、6個歩兵軍団とする
9:中央軍集団もできるだけ史実に近い行動を取るようにし、8月か9月にキエフへ3個装甲軍団を展開して包囲戦を行う。
10:レニングラード真上のへクスにに配置したユニットは、補給切れというのもなんだし、かわいそうだから補給状態でOK

で、こうなった。
まず6月開戦前
1941_6



で、こうなって
1941_6_2



7月が終わる頃には
1941_7



1941年9月にはレニングラード実質占領
1941_9



1941年12月には
1941_12



結論
1、やっぱりルガ川に防衛線引けない
2、ソ連から見て北方戦区は崩壊。
3、レニングラード以東防衛の為に兵力を送るため、モスクワ全面はどうしても薄くなる。
4、第四装甲集団が自力でモスクワ北方にやってくる
5、1942年4月までにモスクワが落ちる可能性は五分。
6、1942年の夏季攻勢が南部で行われるとは思えない。
7、つーか、1942年夏にソ連側全戦線崩壊の可能性あり




ビバ!無防備!
レニングラード占領と、モスクワ包囲の興奮を貴方に。
無防備都市ってすばらしいですね。

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2006年7月 7日 (金)

私を無防備都市へ連れてって 第1回

はじめに

戦史上のあの都市は、もし無防備都市宣言をしていたらどーなっていたか
ちょっと考えてみようというものです。
た だ し
無防備都市宣言の方法を若干変えさせていただきます。
1つは通常の無防備都市宣言
例の「敵軍が都市に迫ったら」というやつです
2つ目は、無防備地域運動の皆様が頑張っている
「条例化して、有事になったら即時宣言」
という方法です。
2つ目は無茶苦茶ではありますが、彼らの主張では
戦争に巻き込まれないわ、町は無事だわ、とてもとても素晴らしいようですので
一考の価値はあるかとおもいます。


第1回 レニングラード(現サンクト・ペテルブルグ)

革命の聖地レニングラード。独ソ戦においてレニングラードは1941年から1944年にいたるまで包囲され、レニングラード包囲戦として戦史に名を留めています。
戦史では1941年9月から1944年1月まで包囲戦が戦われ、レニングラードは約900日以上も包囲されながら抵抗を続けた都市として「英雄都市」の称号が与えられました。
その被害、戦後のソ連政府による公式発表は死者67万人。民間の研究では70万人から150万人の間と見られています。そして、レニングラード包囲戦は「トロイも陥ち、ローマも陥ちたが、レニングラードは陥ちなかった」としてレニングラードの誇りとなったのでした。




1:通常の無防備都市宣言だったら?


まず、いつ宣言するかです。第1次防衛戦に迫った1941年9月8日がよさそうですが、これが市外縁からわずか12km。その防衛兵力も市民を動員した民兵がカウントされています。ここから無防備都市宣言は遅すぎるのではないでしょうか?条約では「直接火砲の照準下に入る」を市に隣接した定義とするようですが、その時点ですでに市街戦になっているようなもので、実際に無防備宣言を出すとしたらもう少し離れたところで出すのではないでしょうか?そうなるとへープナーの第四装甲軍がレニングラード40km地点に到達した8月21日あたりが適当でしょう。
さて、そうなると市の防衛兵力は撤退。市内の軍需工場も操業停止。鉄道の軍事利用もできません。
史実では第四装甲軍は第18軍の到着まで3週間させられていますが、無防備宣言があった場合、第四装甲軍はレニングラードで3週間ほど停止すると思われます。
バルバロッサ作戦の骨子では、まずレニングラード、その後モスクワの順番なので、第18軍の到着を待って第四装甲軍は中央軍集団へ転戦するでしょう。第18軍が到着しても泥濘と冬はまだ先ですので、さらにAAラインへ向って攻勢が取られたものと思います。
レニングラード占領の意義は極めて大きいです。
政治的には革命発祥の地を占領したという問題。
軍事的には、レニングラード港を利用してバルト海を海上補給路として使用可能。結氷まで時間がありますので1,2回は輸送船による補給が可能。
さらにさらに。ソ連の冬季反抗ですが、戦況図を見ればわかるかと思いますが、北方軍集団戦区において、大規模反撃はイリメニ湖南側で行われています。北側ではドイツ第1軍団の包囲を目指した反抗が目立つ程度(もちろん、レニングラード包囲陣への反撃も行われていますが、そこまで大規模ではなありません)。なぜ包囲されているレニングラードへの直接反撃ではないのか?
その原因はおそらく補給と地形とフィンランド軍の存在です。
まず、補給ですがレニングラードの南側にはモスクワへの鉄道がありますが、東側にはテフヴィン等の都市を経由しなければモスクワへの鉄道はありません。つまり、モスクワから余分に遠くなっているので補給線に余計な負担がかかっているものと思われます。
また、レニングラード東方の地形は森林や湖が多く、道路や鉄道に負担がかかります。レニングラード南側で反撃した第2突撃軍ですら、たった1本のエリカ林道が頼りだったのです。
最後に、レニングラード東南にはフィンランド軍が存在してますので、そちらにも戦力を割かなければいけません。
以上が1942年の冬季反抗で、レニングラードを直接狙えなかった原因だと思います。
で、無防備都市宣言した場合ですが、ドイツ軍はレニングラードを補給廠として活用できる上、包囲に取られる戦力もすべて最前線へ投入可能。東部戦線でありながら後方に予備兵力がある贅沢なドイツ軍が見られたかもしれませんなw
兵力に余裕がある以上、ある程度は押されたとしても、史実より酷くなるとも思えません。
史実並みの戦果を望み、政治上の影響を考慮してレニングラード奪回を図った場合、補給に負担がかかるのを承知でさらに多くの兵力は必要になると思われます。そしてレニングラード戦区により多くの兵力を投入するということは、どこからか他の兵力を持ってくるわけで、モスクワ全面や南方の反抗兵力がその分少なくなる事を意味します。そして、補給線に負担がかかっているところにより大兵直を投入するわけですから、さらに補給線に負担がかかったものと思われます。
つまりですね、レニングラードが無防備宣言により市民が助かっただけ、史実の冬季反抗より大侵害が発生し、その成果も史実より少なくなる可能性が大きいってことです。
事実と同様の反撃程度としても、その分損害は減るわけですから1942-1944年まで北方軍集団は戦力を保ち、東部戦線の予備兵力プールとして活用可能です。
また、レニングラード無防備宣言の影響はこれだけにとどまりません。ドイツの1942年夏季攻勢も、ソ連が冬季反抗で史実より大きい損害を出す場合は、他戦区で戦力が減りますし、レニングラードがドイツ軍の手中にある以上、クリミアの第11軍がレニングラードで転戦するとも思えません。南方軍集団はブラウ作戦で史実よりも進撃できる可能性が大きいってことです。
まとめると、最終的にソ連が勝つとしても、史実より戦争が長引いた可能性があります。戦争に関係ない市民の損害は、トータルで計算すれば間違いなくレニングラード包囲戦で発生した市民の損害を上回るでしょう。
こう考えると、確かにレニングラード市民が助かり文化財が残ったとしても、果たして無防備都市宣言が有効か考えてしまいますね。




2:無防備都市を条例化していたら?


無防備推進派のおっしゃる、法制化して有事に発動って事です。んな事スターリンが絶対認めない、というか、いったら最後シベリアで木を数えるかジェルジンスキー広場に連れて行かれるか、どちらかでしょうなぁ。
それはともかく、開戦と同時にレニングラードを無防備都市宣言させ、戦争から逃れてみましょう。
・・・・・・
頭痛てぇ。私がソ連プレイヤーなら投げ出してます。
まず、市内の軍需工場は操業停止。鉄道も同じ。まぁここまでは同じだな。
そして開戦と同時にレニングラードが補給源として使えない。
そうなるとどうなるか。
史実通りにルガ川沿いに戦線がはれないんですわ。最初からレニングラードの鉄道使えないから。なんとか兵力を送っても補給状態劣悪。
おそらく8月下旬にはレニングラード陥ちます。同時期に中央軍集団はキエフ包囲の為第二装甲集団が南下していますので、これと入れ替わるようにして、レニングラード経由で第四装甲集団がモスクワ目指して南下する可能性があります。
グデーリアン達はモスクワ進撃を進言しましたが、ヒトラーの「戦争経済をご存じない」の一言で南下が決まってしまいました。しかし、レニングラードが陥落していれば、フリーになった第四装甲集団が使えるので「レニングラード経由で圧力かけたるさかいに、勘弁してや」とヒトラー・将軍達の取引が成立するのではないでしょうか?
この場合、スターリンにとって悪夢のような事態です。
北からドイツ軍がモスクワ目指して突進され、北からの圧力に対抗している間にキエフでは南方軍壊滅。その後タイフーン作戦で北・西・南からモスクワが攻撃されます。
その結果は・・・・・
1941年末に大損害を受けながらも、モスクワ陥落の可能性が大です。
すげー。
ま、冬季反攻で奪回される可能性も大ですが。
戦史家が一度は夢見るモスクワ陥落。
無防備都市推進運動の皆様はドイツ軍ファンなのでしょうか?
それなら納得ですけどね。
無防備都市条例ってすごいや。

次回はモスクワの予定です。

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